ブログ百雑砕

北海道の瓦文化

小樽歴史的建造物、右近倉庫の屋根から広海倉庫、増田倉庫を臨む。
瓦の織りなす印影がとても美しい。
小樽にある瓦屋根は、全国に類を見ない多様な産地からなっており、その中には道内で作られた瓦も存在します。
昨年、北海道内でしか造られていなかった貴重な瓦を発見しましたが、また新たなる瓦がありました。
やはり北海道でも昔から独特の瓦文化があったのでしょうね。

小樽市観光プラザ・運河博物館の瓦屋根

瓦と私⑩

小樽運河プラザ・博物館の瓦屋根を葺き替えてから今年で丸10年、皆さんに知って頂きたい事があります。

この屋根には元々明治23年頃に製造された福井県の若狭瓦が葺かれていましたが、凍害による劣化が進み、毎年の修繕の範囲では通行人の安全を担保する事が困難と判断され、平成26年度≒3.000㎡全面瓦葺替え工事に至りました。

勿論、小樽市指定の歴史的建造物なので意匠を踏襲するのは大前提ですが、一つだけ大きな変更点として、雪止め用角材を廃し一体型雪止め瓦にする事となりました。

その原因として、毎年、角材下の瓦が積雪荷重により800枚以上破損し、その交換に400m!の仮設足場が必要となる事です。

これは10年前、観光客で賑わっている中、通行人の安全確保とコストを考えるに、せざるを得ない改良点でした。

またこの変更は、土を使った湿式工法から乾式工法へ変える事で可能になった改良工法でもあり、昔の瓦の捻じれや焼成温度の低さによる凍害や脆さ、さらには建物瓦下地のフリク等、破損の原因となる要素を一つ一つ取り除いた結果でもあります。

実は数年前、ある人物がこの変更について苦言を呈するのを耳にしました。

要は歴史的建造物の意匠を後世に伝えるべき本来の意図から外れ、懐古的な趣が壊されてしまったと言う事で・・・

私もまったく同感で出来れば同じままにしたかったですね。

但しそれには予算もさることながら、職人として納得できる対策を十分に講じる事が出来る環境が必要ですが。

因みに葺き替え後、瓦の破損は年に2箇所程度と激減しています。(なんと400分の1)

初回、昭和63年に瓦を葺き替えた当時、建物は未使用で周りには何もなく観光客の往来もない、工事はとてもやり易かったと聞いています。(当時のゼネコン担当者 談)
それに比べ、平成26年の工事時、建物は観光プラザと博物館として通常営業しており、観光客の往来は激しく、生きた心地がしなかったです。笑

北海道独自の瓦発見!

札幌にある軟石蔵瓦屋根修繕、およそ20数年前に全面葺き替えた蔵の中に明治期の貴重な瓦が保存されていました。
管財課担当の方のご厚意で見せて頂きましたが、博物館級のシロモノです!
棟に使用する熨斗(のし)瓦ですが、札幌は白石村だけで造られていたH鋼型の特殊な物なんです。
若い頃、解体した瓦屋根で何度か見ましたがその当時はそんな貴重な瓦だとはつゆ知らず、廃棄していましたが久しぶりに再会しました。
しかし、再会したのが女性ではなく瓦とは、つくづく色気のない人生を送っております、わたし。

札幌百貨店の明治の瓦

丸井今井、明治期の店舗を守っていた鬼瓦。
この風景、肉眼で見たかったなあ。
ん?ひょっとして見たのかもしれない。デジャヴ
なんと福井県口名田村産ですよ!
やっぱり小樽で水揚げして陸路で運んだのでしょうか。
個人的に札幌市内の瓦は白石村で造られた道産瓦だと思っていました。
いぶし瓦なんですよこれが、、、
やっぱり白黒写真で見る限り限界がありますね。

瓦と私④

平成22年に国際交流基金文化事業の一環として、現ロシアサハリン州に『樺太時代の史跡保存事業に係る調査』として同行させて頂いた事は、私にとって筆舌に尽くしがたい出来事でした。
そこでまず驚いたのは、日本統治時代には其処かしこに瓦屋根の建物が存在していた事実でした。
当時の写真を見ると、とても平穏な日常を送る日本の人々が、瓦屋根の建物とともに映し出されていました。
中でも今もサハリン州立博物館として存在する、元々は樺太庁博物館を訪れた際、その屋根にS型瓦と呼ばれる洋風の瓦が葺かれている事に驚きました。
『えっ、この瓦この当時あったの???』
私を含め皆さんがイメージする昔の瓦は、お寺やお城に葺かれた純和風のものが大半のはずです。
しかしながら、添付写真の通りヨーロッパ基調の洋風の瓦が屋根に載っていたのです。
帰国後調べてみると、このS型瓦は樺太庁博物館が建立された前年に開発されたばかりの、当時としては最先端の瓦だったのですよ。
この瓦は今でもスペイン瓦として、洒落た建物に人気の高い瓦ですが、80年も前に、それも開発されたばかりの瓦を採用した政府担当部署の英断にもとても驚きました。
さらに専門的な話になりますが、この瓦の役物や納め方等等、色々な発見があり、それはもう楽しかったですね。
私にとって、多少なりともこの事業の趣旨に色を添えられた、とても誇らしく有意義な調査となりました。
 

瓦と私③

そうですね~、長いこと瓦に携わっているとちょっと変わった案件もありましたね。
稚内ではさる陶芸家が、長野県で購入した武家屋敷を移築しその屋根に瓦を葺きました。
だだっ広い草原の中の一軒家で長野から来ている大工さんや陶芸教室の生徒さん達と、近所の漁師のおいちゃんおばちゃんが持ってくる魚を肴に、毎晩キャンプファイヤーを囲んで宴会だったりしました。(私はほぼ下戸だからちょっと迷惑)
襟裳ではとても徳の高い住職が居られる寺の本堂に瓦を葺きました。
(この方は本物の霊感があるのです!)
ここの檀家さんは皆住職を慕っており仲良しで毎日身に余る食事をごちそうになったりしました。
あと何故か温泉には瓦がつき物であちらこちら、トムラウシ温泉の泉質に感嘆したり。
イギリスはコッツウォルズの家や石屋製菓のチョコレートファクトリーではハンドメイドのイギリス瓦を葺き、札幌市の瀋陽庭園には紫禁城と同じ中国瓦を葺いたり、スウェーデンやスペイン、フランスの瓦、大きなシャチホコの乘った小樽市博物館などなど・・・
そんな中でひと際印象深いのは博物館網走監獄の教誨堂に葺かれた瓦に携わることが出来た事でしょうか。
私はこの瓦を初めて見た時、独特の風貌や肌触り感など、今まで多様な産地の瓦を見てきた私が経験した事がないものでした。
その私の経験から、色々な角度からの考察により当時囚人が焼いた瓦である事をほぼ断定する事が出来たのは大きな収穫でした。
2016年この建物は国の重要文化財に指定されましたが、私が瓦の過疎の地、北海道で瓦職人をやってきた事が報われた出来事でもあったのです。
 

瓦と私②

前回の続きです。
たとえば、瓦には窯元が判別できる印が刻印されています。(写真参照)
この窯印を辿れば、建主の郷里や北前船での流通経路、時代背景など様々な事が見えてきます。
もうそれだけで研究者の探求心を刺激しますね。
ただこれは屋根に直接上がらなければ確認できない事がほとんどなので、興味を持った私だけが知りえる情報なわけです。
逆に言えばこの情報がなければ何も始まらないと言えます。
惜しむらくはスマホを持つ前には簡単に撮影する事が出来ず取り壊された建物が多々あることですが・・・
当時、ニシン御殿の網元の郷里には沢山の窯元があり、その窯元を判別する窯印シートが多数存在します。(一部を参考に添付)
もし、あなたが何処ぞの軒下で古瓦を見つけ、その瓦に道内でまだ確認されていない窯印があったとすれば、それだけでとても興味深い発見となるのです。
さあ、今すぐあなたの周りの瓦をチェックして、あなたも今日から瓦の専門家になろう!!!笑

瓦と私①

ハイ皆さんこんにちわ。
いつの間にか人生の半分約三十年を瓦と一緒に過ごしてきた林です。
面倒な説明は省きますが何と家内と一緒になっても三十年以上経つんですね~
例の疫病が長引くせいで不本意ながら時間があったりするので徒然なるままに瓦の事を謳ってみたいと思い筆を執りました。
何回かのシリーズにするつもりです。
第一回目はザックリと北海道の瓦事始めという事で、、では・・・
道内には瓦屋根が少ないので皆さんあまり瓦に馴染みはないと思います。
しかしながら北海道開拓の頃、今から150年も前から瓦は道内に存在していました。
それは当時ニシン漁で沸く北前船の船主が地元の瓦を北海道まで運び自身の鰊御殿や石蔵の屋根に葺いたためです。
もともと瓦は地場で焼かれ地場で消費する地産地消の最たるもので、瓦の本場でさえ県をまたげば色や寸法が変わり、瓦職人でさえ隣の瓦の事は分からないのが普通でした。正に『舎人は何をする人ぞ』。
しかし、北前船という流通手段を得た瓦は自由の翼を持ったのです!
その結果、例えば小樽には本州各産地の瓦が交じって存在するという、他に類を見ない独特の景観が形成されました。
これは瓦の過疎の地、北海道で古くから瓦に携わってきた私だから気づく事の出来た極めて貴重な事象と言えます。
調べてみると道内の瓦について研究はほぼ成されておらず、この事象をもとに掘り下げれば有意義な研究課題になり得るのは明白でした。
私は何時かこの辺の研究が成される事を切望するようになりましたが、この出発点がなければ道内瓦の学術研究も何も始まらないのも自明の理です。
きっと北海道に残る瓦たちが、私を使って何か訴えようとしているように思えてならないのです・・・
※下の写真を見ると色が違う瓦がありますね。
 産地の違う他の屋根から持って来て修繕された瓦です
              (次号に続く)